青春シンコペーション


第1章 先生は金髪美少年!?(3)


「彩香さーん」
大学からの帰り道。井倉は偶然、彼女の姿を見つけた。しかも、珍しく彩香は一人だ。いつも彼女を取り巻いている女の子達の姿がない。井倉は急いで追いつくと、並んで歩き出した。
「今日はお迎えの車は来ないんですか? 丁度今、僕も帰るところなんです。よかったらそのバッグ持ちますよ。重いでしょう?」
井倉は明るく声を掛けた。が、彼女はそれを無視するように脇目も振らず歩いていく。

「あの、怒ってるんですか? 今日、昼休みに行けなかったこと……」
「別に」
彩香は澄ました顔でカツカツとヒールの音を響かせて歩く。
「すみません。次からは気をつけます」
彼女は無視したが、井倉は構わず話し続ける。
「ああ、それにしても本当に久し振りですね。こうして彩香さんと二人で歩くのは……」
井倉はうれしそうだった。が、彩香は立ち止まり、彼を睨んだ。
「気安く呼ばないで」
きっぱりと告げ、再び歩き出す彼女。そして井倉がそのあとを追う。

「すみません。でも、今日はいいことがあったのでつい……。駅まで一緒に行きませんか? そこまで荷物持ちますから……」
と、井倉が彼女のバッグを持とうとした時。
「触らないで!」
彩香がその手をピシッと叩いた。
「でも……」
井倉が驚いて彼女を見る。
「余計なことしないで!」
彼女は機嫌が悪かった。井倉の手を振り払って先へ進もうとする。

「何をそんなに怒ってるんですか?」
「いいから放っといて!」
「何かあったんですね」
思わずそう訊いた。いつも女王のように君臨し、取り巻きの彼女達に囲まれて輝いている彼女には、とても似つかわしくない態度だったからだ。
「あなたには関係のないことよ」
彩香が言った。
「わかりました。もう何も言いません。でも、バッグくらい持たせてください。重いでしょう?」
彩香はこれまで自分で荷物を持ったことなどない。それほどまでに彼女はお嬢様だった。華奢な彼女が持つには、今日の荷物は重過ぎるだろう。井倉は今日の授業の内容と教科書の厚みを知っていた。

「いいことがあったんですって?」
ふと彩香が立ち止まり、皮肉を込めて言った。が、その声は、先ほどよりも幾分柔らかな雰囲気に変わっている。それを受けて井倉はうれしそうに言った。
「ええ。実は僕、合格したんです。ピアノの試験に……」
「合格……?」
彩香が驚く。
「そうなんです。彩香さんのようにSなんてすごい成績は取れませんけど……。バウアー先生に合格って言ってもらえて……たとえCでもうれしくて……」
「C? それってバウアー先生がおっしゃったの?」
「ええ」
驚愕したような瞳で、彼女は見つめる。
「あ、すみません。たかがCくらいで喜んじゃって……。Cなんていったら最低で、ほんとは恥じなきゃいけないってわかってるんですけど、バウアー先生の評価は厳しいって聞いてたものですから……」
「ほんとに……。信じられないわ。それって一体どういうことなのかしら?」
彩香は納得出来ないといった顔をした。
「あの、何か……」
井倉はおどおどと言った。長く傾いた二人の影……。彼女はそんな彼の影を見つめ、ぽつりと言った。
「どうしてあなたなの?」
「え?」
「なぜ、あなたが合格した訳?」
後ろから来た自転車のタイヤがその影を踏んでいく……。
「えーと、そこのところは僕にもよくわからなくて……」

――それがわからないようでは、次もきっと受からないでしょう

ハンスの言葉が彩香の脳裏に過ぎった。
「わからない……。一体何が足りないというの? 教えて欲しい。何故あなたが合格で、わたしが不合格なのか……」
「え?」
井倉は自分の耳を疑った。
「今、何て……」
緊急車両がサイレンを響かせて通り過ぎ、その反響がわーんと耳の奥で木霊していく……。
「わたしはD、不合格だと言われたの!」
赤いランプの閃きが背後にちらつく。
「そんな! まさか……信じられない……」
井倉は唖然として彼女を見つめた。夕闇の風が整えられた彼女の髪を乱していく。その風に向かって彼女は言った。

「わたしはずっと小さい頃からコンクールで優勝してきた。もらったトロフィーだって数え切れない。なのに何故……? こんな屈辱初めてよ! 一体、あのピアニストは何者なの? 彼、ハンス ディック バウアーって……」
一瞬だけ鳴ったクラクションがピアノの音のように高く響いた。
「何者って言われても……。あの黒木教授の知り合いのドイツ人ピアニストだってことくらいしか……」
ふいに信号が変わって、目の前の横断歩道から人が流れた。暮れ掛けたアスファルトの街。その頭上を烏の集団がゆっくりと飛んで行く。

「あなた、食堂でバウアー先生とやけに親しそうに話してたじゃない?」
「あれは……。まさかハンスがバウアー先生だなんて思わなかったから……。黒木先生が尊敬してるって言うので、僕はすっかりお年寄りの先生だと思ってたし。こう言っちゃなんだけど、彼、容姿だってあんなだから、てっきり外国から来た新入生だと思ってたんだ」
「バッカじゃない」
彩香が言った。
「そうですけど……」
井倉が俯く。車道に伸びた影。信号が変わり、動き出した車が次々とその影をひいていく……。
「でも、そのバウアー先生には随分気に入られているようね。一体どうやって彼に取り入ったのかしら?」
「取り入るだなんて……僕は何も……」
慌てて弁明しようとする井倉。が、そんな彼の言葉を遮るように彩香が言った。
「そうよね。あなたには何もないんだもの。先生に付け届けを贈るほど気も利かないし、そんな経済の余裕もないでしょうしね」
その表情にも言い方にも酷く棘があった。

「彩香さん!」
井倉が正面から彼女を見据える。
「あら、怒ったの? あなたでも気に障ることってあるのね」
井倉は拳を握り掛けた。が、静かにそれを解いて言った。
「さっきの言葉、取り消してください。ハンスは……バウアー先生は付け届けをもらって手心を加えるような、そんな人じゃありません!」
「あら、じゃあ、何が彼をそうさせるのかしら? まさか、自分の才能が先生の心を動かしてるとでも言いたいのかしら?」
「それは……」
井倉は再びその思いを握り込む。

「ふふ。本音が出たようね。あなたはいつも下手に出ているようで本当は絶対の自信を持っているんだわ。本当は自分の方が実力があるのだと自慢したくて……なのに、そんなことおくびにも出さず、心の底ではいつも他人を見下してる。そうでしょう?」
「何を言ってるんですか?」
井倉は困惑していた。何故、彼女がこんな風に自分に突っかかってくるのかまるで理解できない。それでも彼女は続けた。
「さぞかし面白いでしょうね、他人を見下すのって……ねえ、言ってみてよ。どんな気持ち?」
「彩香さん……」
井倉は悲しそうな目をした。そんな彼らの脇を子供達が無邪気に笑いながら通り過ぎる。

「どうしてですか? 何故そんなことを言うんです? 僕がそんな風に思ってる訳ないじゃないですか。わかってるでしょう? 僕はいつだって彩香さんのことを尊敬してるし、ずっと小さい頃から憧れて……」
「違うわ」
彩香が遮る。
「笑っていたのよ! 本当は……わたしのことをバカにして……」
「彩香さん……!」
「でなければ、どうしてあなたが特別レッスンに選ばれたの? そして、何故あなただけがバウアー先生の試験に合格出来たの?」
「僕だけが……?」
井倉は衝撃を受けた。
「そう。彼の特別レッスンを受けた者の中で合格したのはあなただけ。まさかと思ったからはじめからあなたには尋ねなかったけど、これではっきりしたようね。あなただけが特別だったって……」
「そんな筈ありません。ある筈ないじゃないですか。どうしてそんなこと言うんです?」
「さあ、どうしてかしら」
そう言うと彼女は通りの向こうに目をやった。そこにあるのは石の壁と歩道。すすけたガードレールが途切れ途切れに続いているだけ……。そんな光景をぼんやりと見つめている。そんな彩香を井倉が見つめる。が、やがて視線を逸らして彼が言った。

「今日の彩香さんはどうかしてる……」
井倉はそっと目を伏せた。
「そうね。どうかしてるわ、本当に……。こんなバカげたことが許されるなんて……」
彩香は目の前に迫った地下鉄への降り口を見て言った。
「これもみんなあなたのせいよ。あなたとバウアー先生の……」
そう言葉を投げつけ、彩香は四角く開いた地下への階段へと降りて行った。井倉はあとを追わなかった。
「彩香さん……」

――あなたのせいよ。あなたとバウアー先生の……

「どうしてそんな風に……」
彼は支柱に手を置き、額を付けて俯いた。


2週間が過ぎた。井倉のレッスンは次の曲に進み、それも今日のテストでパスした。評価はCだったが、それでも合格したことには変わりなく、ハンスは次の曲を練習して来るようにと告げた。
「井倉君、どうしたんですか? あまり元気がないみたいです」
ハンスが訊いた。
「いえ、何でもありません。ありがとうございました」
そう言って井倉はレッスン室を出た。

元気がないのには理由があった。あれ以来、ずっと彩香から口を利いてもらえない。今もそうだ。廊下のソファーで待っていた彼女は、わざと井倉を無視して通り過ぎた。
「彩香さん……」
しかし、彼女は振り向きもせず、レッスン室の扉の向こうに消えた。
そして、聞こえて来たのは「エチュード4番」。
そう。あの曲だ。あれ以来、彼女は毎週テストを受け、その度にハンスから不合格を言い渡されていたのだ。
(でも、どうして……?)
井倉にはその理由がわからなかった。


夕方。最後の学生がレッスン室を出て、ハンスが部屋を出ようとした時、大学の理事長と黒木が訪ねて来た。
「バウアー先生、お疲れ様です。もうお帰りですか?」
理事長が言った。腰は低いが細い銀縁の眼鏡の下からは抜け目なさそうな目が覗いている。
「僕に何かご用ですか?」
ハンスが訊いた。
「いえ、ただ、そろそろ1ヶ月も過ぎて参りましたし、どうですかな? うちの学生達の様子は……。先生の御眼鏡に適う者はおりますでしょうか?」
擦り寄るように理事長が言う。が、ハンスは少し首を傾げて言った。
「僕のオメガネ……って?」
彼にはその言葉の意味が理解できなかったらしいと気づいて理事長が言い直す。
「つまり、うちの学生の中に、これから世界に出て活躍出来そうな人材がいるかどうかをお聞かせ願いたいのですが……」
「いません」
ハンスが即答する。その返答に理事長は唖然とし、それからやや苦笑しながら言った。

「しかし、その……たとえば有住などは小さい頃から国内のコンクールでは申し分のない成績を残しておりまして、何と言っても彼女は有住財閥のご令嬢ということもありますし、我が校と致しましても大変期待しておる学生なのですが……」
「残念ですが、今の彼女では無理ですね」
ハンスは言った。
「無理……」
理事長が呆然と彼を見つめる。が、ハンスはまるで動じない。そんな二人をおろおろと見つめる黒木。
「一体……何が不満だとおっしゃるのでしょう?」
理事長が頬をひくつかせて言った。
「何のことですか?」
「一体、有住彩香の何処がお気に召さないと……? 先生は3度も彼女を試験で不合格になさったそうですね。そのせいで彼女が酷く傷ついていると父親から抗議を受けたのです。彼女の実力はここにいる黒木教授はもちろん、誰もが認めるような才女なのです。それを……」

「僕のやり方が気に入らないなら辞めます」
そう言って部屋を出ようとするハンスを黒木が慌てて止める。
「待ってください。もう少しお話を……」
「何も話すことはありません。残念です。もしかしたら、あの中に才能のある人がいたかもしれないのに……。でも、僕のことが信じられないのなら、もうここに来る必要がありません」
「いや、別にそういう訳では……」
理事長も言った。
「ただ、もう少し評価に手心を加えていただけないかと……何しろ、彼女は有住財閥の……」
と言い掛けるが、ハンスに睨まれて理事長はおずおずと視線を逸らし、懐からそっと何かを取り出して言った。

「実は、ぜひ先生にこれをお渡しして欲しいと預かってきた物もございまして……」
と、厚みのある封筒を差し出す。
「何ですか? これ」
怪訝な顔をするハンスの手に無理に押し付けようとする。
「いいから黙ってとっておいてください」
「困ります」
二人が押し付け合っているうちにパサリと封筒が落ちた。その表紙に封が開いて紙幣が覗く。ハンスがそれを拾い、中を確かめる。新札が二束、およそ二百万円ほど入っていた。
「ふっ。僕も随分安く見られたものだな」
そう言うとハンスはそれを理事長に叩きつけた。札は見事に床に散らばる。その塊を靴で踏みつけ、にっと笑ってハンスは言った。
「お金で才能は買えません。それに、もし、僕を本気で買収したいのなら、二桁足りないと有住さんに伝えてください」
「な……!」
理事長の手がわなわなと震えている。そんな男と床に散らばっている金を見て、ハンスは吐き捨てるように言った。
「不愉快だ。僕、帰ります」
扉が重い音を響かせて、ハンスは出て行った。取り残された男二人に無機質な照明が当たる。
「くそっ! 若造め! 一体何様のつもりだ?」
理事長が頬を紅潮させて悪態をつく。が、結局、彼自身が這いつくばって散らばった紙幣を回収するしかない。黒木はそんな理事長を哀れな目で見下ろすと、ハンスのあとを追うと言って出ていった。


その頃、井倉は大学の事務員に呼び止められていた。
「え? 授業料が未納になってる? そんなバカな……? 僕、ちゃんと口座に入金しています」
しかし、事務員は冷たく言った。
「現に引き落としが出来なくて何度も督促の通知が行ったと思うんですけど……」
「え? 来てませんよ。何かの間違いじゃありませんか?」
井倉は納得がいかなかった。が、彼女は更に決定的なことを言った。
「前年度の分と合わせて、明後日までに納入されないと退学扱いになりますので……」
「そんな……第一、前年度の分ってどういうことですか? 僕、ちゃんと払ってるんですけど……」
「では、確かに納入されたという証明をお持ちください」
「わかりました」
井倉はあっさりと言って引き下がった。通帳に記載されている筈だと思ったからだ。
「そういえば、ここしばらく記帳していなかったな。早く確かめて濡れ衣を解かなきゃ……」
井倉は急いでアパートに向かった。


彩香は憂鬱な顔で一人駅へ向かっていた。今日のレッスンでもまた合格とは言ってもらえなかった。
(一体何が足りないというの?)
それを訊いてもハンスは自分で考えろと言うばかりだ。
彼女は途方に暮れた。あの日以来、迎えの車も断り、友人達とも疎遠になっている。鞄がやけに重く感じた。今日は井倉も来なかった。来るなと言ったのは彼女自身だった。が、背後で靴音が聞こえる度に振り向いてしまう。辺りはすっかり夕闇に包まれようとしていた。と、いきなり子供達の歓声が上がった。
「来て! ハンス!」
子供の声が飛び込んできた。
「ハンス……?」

そこは住宅街の公園だった。彼は小さな子供達に混じって元気に走り回っている。きらきらとした笑顔と黄金色の髪に当たる夕陽が彼の魅力を存分に引き出している。
「バウアー先生……」
思わず足を止め、フェンスに近づいた。
「あれ? 彩香さん」
ハンスが彼女に気がついて呼んだ。
「丁度よかった。これからみんなで大縄跳びをするんです。彩香さんもどうですか?」
「え? わたしは……」
彼女が躊躇っていると、ハンスがフェンスを跳び越えてきた。

「ここは小さい子ばかりで、縄を回すのに二人いるんですけど、僕とじゃ背の高さが合わないから、君が来てくれると丁度いいんですけど……」
確かに柵の向こうで幼稚園くらいの子供達が不安気な顔でじっとこちらを見つめている。
「わかりました」
彩香は仕方なくハンスと一緒に公園のゲートに入って行った。
「お姉ちゃん、誰? ハンスの恋人?」
おませな女の子が言った。
「え? 違うわ」
彼女が否定するとまた別の子が訊く。
「それじゃ何?」
「彼女は僕の弟子なんだよ。つまり魔法使いの弟子さ」
ハンスがにこにこと笑いながら言った。
「魔法使い?」
彩香が不思議そうな顔でハンスを見る。
「そう。ハンスは魔法使いなんだ」
「お姉ちゃんも魔法使い?」
小さい子達が質問する。
「え? 魔法なんて使えないわ。だって……」
意味がわからない彩香が言い訳していると、7才くらいの子が得意そうな顔で言った。
「そりゃそうさ。お姉ちゃんはまだ弟子なんだもん。これからちゃんと魔法が使えるように修行してるとこなんだよね?」
「え、ええ」
彩香は何となく乗せられてそう返事した。確かに、ハンスは彼女のピアノの先生であり、師匠と弟子という関係には違いない。そういうタイトルの有名な曲もあるし、多分ハンスはそうした比喩を用いたのだろう。こうして見るとその呼称はなかなか彼に似合ってるように思えた。

「はい。お姉ちゃん」
さっきからずっと脇にいた男の子が縄を渡した。
「あ、そうね」
彼女が縄を持つともう一方の端を持ってハンスが走る。そして、十分な距離を取ると彼は振り向いて言った。
「それじゃ行きますよ」
ハンスが言うとわあっと子供達が歓声を上げ、列を作った。そして、ハンスと彩香が回す縄の中に次々と入って行く。子供達は元気に歌いながら縄を跳び、それを回すハンスはうれしそうだった。
(何だか子供みたい……)
彩香は何故、自分がこんな手伝いをしなければならないのかと思ったが、楽しそうなハンスや子供達を見ているうちにそんな不満は消えて、いつの間にか自分も一緒に子供達と歌っていた。それは、幼い時、自分も遊んだことがある歌だったからだ。
そうしているうちに一人二人と母親が迎えに来て、子供達は帰って行った。
「バイバイ、ハンス」
「またね」

最後の子が行ってしまうとハンスはベンチに置いた上着を取った。
「ありがとう。助かりました」
ハンスが礼を言う。
「いえ、わたしはただ……」
久し振りに汗をかき、腕が筋肉痛になるかもしれないと彼女は思った。が、それが悪いことだとは思わなかった。
「とてもいい感じでしたよ。ピアノもそんな風に弾いたらいいんじゃないかな?」
ハンスがぽつりと言った。
「え?」
彼女には意味がわからなかった。
「来週の君の演奏が楽しみです」
そう言って笑い掛けたハンスだったが、ふいに真顔になって言った。
「ああ、来週はもうないんだった。残念だな」
「え? どういうことですか?」
彩香が訊いた。

「僕、大学の仕事辞めちゃったんです」
「辞めた? 何故ですか?」
驚いたように彼女が問う。ハンスはじっと彼女を見つめて言った。
「最後に君に会えてよかったです。これだけはどうしても言っておかないと……」
ハンスは微かに残った赤い闇を見て言った。
「僕をお金で買うことはできません。前にはお金をもらってコンサートを開いたこともあったんですけど、今はもうそれもしていません。ましてや、成績をお金で売ってくれと言われてもそれはやっぱり無理でしょう。もっともあれが札束じゃなく、チョコレートだったら少しは考えてもよかったんですけど……」
そう言ってハンスはくすくすと笑ったが、彩香は驚いて返した。

「そんな……! わたしが先生を、買収しようとしたとおっしゃるんですか?」
「いえ、多分、あなたのお父さんが……」
「何てことを……」
彩香は絶句した。
「だから、僕、レッスンを辞めた方がいいと思ったんです」
「そんな、困ります。辞めないでください」
彩香が言った。
「何故です?」
「中途半端はいやだから……」
彩香の瞳に真剣な光が宿る。
「わたし、先生に合格だと言ってもらえるまで何度でも挑戦します。だから、お願いです。それまで絶対に辞めるなんて言わないでください。わたしに、いいえ、わたし達にチャンスを下さい」
必死に懇願する彩香を見てハンスは頷いた。
「わかりました。もう一度、よく考えてみます」
「お願いします。父には、わたしからもちゃんと説明して、必ず先生に謝ってもらいます。だから、お願いです。どうかわたし達を見捨てないでください」
遠くを走る電車の音が二人の耳に響いてくる。
「ずっとあなたの……魔法使いの弟子でいさせてください」